文責 tk
吉田寮は敬語を推奨しない。
…という不文律があります。文字通り、寮の住人は、自らの年齢、又は入寮年度からくる、いわゆる上下関係からはなれて、普通体(つまりタメ口)の日本語で会話することが一般的です。寮内言論の支柱たるこの文化は、そもそも何処に源流を求められるのでしょうか?
一説には、遡って五、六十年前、学生運動が一世を風靡した時代、議論の一層の自由闊達を、という要請に由来すると言われています。そしてこの文化が、遂には私たちの代にまで連綿と受け継がれてきたという訳です(諸説アリ)。ですから、敬語非推奨の文化は、学生運動の文脈と不可分の結び付きを示しています。敬語によって紡ぎ出される、人聞模様の濃淡の妙を軽規している、という弊害も考えうるでしょう。しかし、先人の試行錯誤がこのようなかたちで結実して、その断片未だにこうして保存されているのは、寮の人々がこの文化に価値を認めてきた証左ですし、更には、学生運動のみならず、私たちの話す言葉、延いては、それを用いた人との関係づくりを考える上で、純に興味深い事実だといえませんか?
これについての評価と運用は、当然側人の判断に譲るとして、その潮流にひとたび飛び込めば、あなたの寮生活に、他所では味わい難いみずみずしさを与えることでしょう。
敬語非推奨についての梗概は以上です。以下に、この文化に対して、私見をまじえての利点をひとつ、述べさせて頂きたいと思います。
さて、文責者は、学部を強くてニューゲームしました。つまるところ、別の大学の学部を一旦卒業した後、今度は京大の学部に転生入学してきました。赤っ恥なこの経歴は、入学前の私を心胆寒からしめていました。そう、「俺は間連いなくうく」という確信です。果たして、私の経歴は、ういていたのでした。しかしながら、私がこの一年で結んだ多くの友誼は、ひとりよがりながらも、 なかなかフラットなものだったと思うのです。そして、このみずみずしい一年を私に約束したのは、敬語非推奨が醸成した寮のムードのおかげかなあ、とも思うのです。下に、ひとつの格言を載せます。
君子曰、「所詮敬語、而敬語。」
(出典:坂語)
四月も色々な人たちが来るでしょう。学部、院を問わず、現役生、一浪、あるいは私のような転生者も。この駄文に目を留めてくださったあなたに朗報です。気まずい気分に絶対にならないとは断定できないけれど、結構なかなか対等な関係を築けるじゃん!と思えるような空気がここには満ち溢れています。
新入寮生にとって、最初の一ヶ月は特に、共同生活をおくる実感をひしと感じるでしょう。様々な属性をもつ人が集う雑多な群れをぬるっと包摂し、とうとうアマルガムに昇華せしめる道具として、あなたは敬語非推奨の威力をまず目の当たりにするでしょうし、やがては寮全体へ、道具の応用を始めるでしょう。
「所詮馴れ合い。」と等閑に付すことも可能でしょうが、住まず嫌いはやめて、とりあえず体験入寮してみては?いろいろおもしろいですよ。敬語をつかわないのは。