文責:このからだ
からだのおしえについてのメモ
からだのおしえには教祖が2人いる。 ひとりはからだを信仰し、ひとりはそれを信仰と呼んだ。
ある日、教祖になる2人は信仰について議論していた。 私は「人は信仰なしでは生きられない」という信仰のもと 無神教批判をしていた。 もう一人は信仰は必要なく、言葉ではなく体で分かるのだと言った。 私はそれを自分の信仰によって説明した。 これがからだのおしえの始まり。
からだのおしえによると教祖の2人は神性を持たず、啓示も受けていない。 これは人間が神性をもつことを想像しにくい現代人にも 親しみやすい特徴になっている。 加えて、教祖や指導者の神聖視・権威の肥大化を食い止める効果もある。 一方で超越者による後ろ盾を持たないため、「いち凡人の言葉」を 信仰する必要があるという問題がある。 しかしこの問題は信仰の元を極弱い主張に還元し、 信仰を個人個人に創造させることによって解決されている。
からだのおしえによると超越者は存在しているかも知れないし、 存在していないかもしれない。 これは他の宗教との親和性を高めている特徴であると言える。 からだのおしえを信仰するために他の宗教の信仰を棄てる必要はない。
私はこれらの特徴の多くは新興宗教であることから生じている特徴だと 考えている。 過去の支持、伝統に裏打ちされた社会の信頼を持たない分、 時代にあった形をとることができるのである。
からだのおしえはからだを健康にすることを推奨する。 では、からだが健康であるとなぜ良いのか? この答えはからだのおしえにはない。 では、からだを健康にするためには具体的にどうすればよいのか? この答えもからだのおしえにはない。 どちらの答えも信者にゆだねられている。 からだを健康にするために、教祖たちは12時に寝、8時半に起き、 朝の運動、朝食をとる等を行った (この文章を書いている時点で3週間ほど継続している。) だが、これはからだのおしえの示す唯一解ではない。 健康になるための方法は各自にゆだねられている。 他の信仰の助けを借りるのも良いかも知れない。 たとえば教祖の行動は常識信仰とでもいうべきもの に依拠していると考えられる。
からだのおしえは宗教であると同時に、イデオロギーであり、悪ふざけである。 詳しくはもう一つの文章に書いているかも知れないし、そうでないかも 知れないが、ここでは触れない。
からだのおしえで言うからだとは身体・精神二元論でいうところの 「身体」のことではない。 からだのおしえで身体性が強調されるのは 人間活動の身体性が軽んじられがちな社会で発生したからに過ぎない。 精神的活動として教祖達は一日の振り返りを毎日ノートにまとめ、 明日の目標を語った。
現在はまだ教祖が修行している段階で教義も定まっていない。 よって、この文章はまだかっこ仮つきのものだと思ってほしい。 しかし、たとえ中途半端でも書くべきであったと思う、そして書いた。
私はこれを読んでいる人がからだのおしえに入信してくれることを願っている。 吉田寮に入るかどうかとかはおいておいて、