文責:ひとつのからだ
人間はその時々の状況における願望を言葉によって結晶化して主義主張にする。主義主張は言葉であるから、状況が変わっても残り続ける。だから、それに適合しない状況でもその主義主張が使用されることがある。これが言葉の限界である。
言葉の限界はもう一つある。言葉は相矛盾する要素を正しく表現することができないということだ。「秩序」と「自由」を両方とも称賛する言葉は意味不明瞭なものになる。だから、言葉に従って主義主張を極めていくと、どちらかに極端に偏った思想を持つことになりがちである。
近頃のネットを見ていると言葉だけに頼ったコミュニケーションの限界を感じる。立場の左右によらず、非常に偏った立場から激しい言葉が行き交っている。
そのせいか、今の日本社会はクソ化している様に見える。いや、日本だけではなく多くの先進国の社会がクソ化している。そして今回のコロナ禍でそれが際立った。人々は様々な立場で分断され、血の通った人々の共同体は急速に無くなっている。誰もあたたかい未来を想像できない。
あれもこれもそれもひとえに”からだ”を疎かにしたせいであると私は考える。
人は言葉に従って生きている訳ではない。言葉は様々な物事について分析ができるが、最終的に判断を下すのは心であり、広義の”からだ”なのだ。正しい判断を下すためには、正しい心を持ち、正しい”からだ”を持たなければならない。
そもそも、人のああしたい、こうしたい、という願望には根拠は言葉のうちには無い。よく考えればそれらがすべて”からだ”に源があることが分かるだろう。そして”からだ”は「いきいき」することを求めると知る。
「いきいき」するためには健康が必要だ。だから我々からだの実践者は早朝八時半に起き、ラジオ体操をし、皆で朝飯を食うのだ。
しかし、「いきいき」するためにはこのような個人的な努力では足りないことも多い。
だから政治の最終的な目標はみんなが「いきいき」と暮らすことにある。
「汝なすべし」「汝なすべからず」が権力によって上から押し付けられているとき、人はいきいきとは暮らせない。願望を実現することを妨げられているからだ。やがて革命が起こり人は自由を獲得する。しかし、人は完全なる自由のうちにあるとき、何をすべきかに悩み、人生の意義に悩み、いきいきとは暮らせなくなる。そしてそのような人生の意義を外部から与えてくれる教えを求める。時折、そのような教えは大きな流れを生み、新たなる権力となる。こうしてふりだしに戻る。
以上のループのどこに間違いがあったのか。それは、人が何をすべきかについて悩んでしまったという点だ。そもそも人生には絶対的な意義はない。これこそが人生の意義だと見せかけていてもそれは言葉の問題であって、”からだ”に根ざしていないから、いつでも放り捨てることができる。人生の意義は任意に選んたものに過ぎない。
じゃあ、人は長い人生の間何をしていけばいいのか。人はパンのみにて生くるにあらず。食って寝て起きる毎日では満足できない”からだ”なのだ。
私はそもそも「何をすべきか」という問い方こそが間違っていると考える。人は「何をすべきか」ではなく、「何がしたいのか」という自分の欲望にこそ目を向けなければならない。
言葉にずっと目をむけていると自分が何がしたいのか、わからなくなってくる。自分の欲望はそこには無いから。
だけど、食欲や性欲や睡眠欲などの安易な欲望に身を任せても、自分を見失う。そこに自分は要らないから。
なにかの中毒になっている人を「いきいき」しているとは呼べない。しかし、なにかに熱中している人は「いきいき」している。違いはその対象の中に自分がいるかいないかである。だから、我々は実存を震わせるような欲望を持たなければならない。
以上のことをまとめると、
- 人は「いきいき」することこそが幸せであり、そのためには健康であることが必要だ。
- 加えて、健全な欲望がなければ人は自分自身を見失い、元気を失う。
- だから、日常生活を丁寧に送ること、その中にこそ幸福の手立てがある。
これがからだのおしえである。